この台詞を、生み出した野木亜紀子さんの凄みに、本当に心底、尊敬と敬愛でわしづかみにされてます。
この台詞を聞いた瞬間、衝撃を受け、
今なお、すごくすごく心に刻まれています…。
「俺は誰の物語にもならん」
TBSドラマ「MIU404」
このセリフがいろんなシーンで、私の頭の中でぐるぐる飛び交う。
コンテンツとして消費される物語。
コンテンツとしての消費か、
社会を動かすムーブメントか。
それらは表裏一体でもある。
社会に対する問題提起があるとき、
「誰かの物語」が、センセーショナルな"コンテンツ"として世の中を動かしていくことは確かにある。
イージーな感傷モードで親指が反射的にポチった「いいね」のチリツモであっても、
それがときに大きなうねりになることで社会が変わっていく歴史も、また現実としてある。
社会が変わらないと、
弱者は弱者のままである。
でも、、、。
誰かの辛い痛ましい物語が、
コンテンツとして消費されていく気持ち。
なんともいえず気持ちが沈んで居心地が悪くなる。
そんなモヤモヤした気持ちが、
すくいとられた台詞のように感じた。
気を抜くとまた勝手に、裏にある「物語」を
つい想像してしまいそうになり、そしてまた、
「誰の物語にもならん」という言葉が目の前に戻ってくる。
一方で「作品」として昇華される救い。
そんなモヤモヤについて書きかけてたら、
次の日、またもや末次由紀さんのつむぐ感想の言葉に、昨日とはまったく真逆のことを思ってしまう。
話題になってた「ルックバック」の感想。
「ノンフィクションはいつも私たちを殴ってくるけど、フィクションに繰り返し繰り返し救われる。」
凄みがじっとりまとわりついて、
いろんな思いがぐらぐら巡ってしまう迫力の作品だった。
同じ作品への思いを、
たった140文字の制限の中でこんな解像度で表現されるなんて。
「出会わなくても進む未来はそんなに変わらなかったかもしれないという描写が、運命の強さであり希望なのではないか。」
ダブルスタンダードの境界線
起こってしまった出来事を、
物語として消費する罪悪感を感じながら。
一方でこのルックバックみたいな「作品」としての昇華を美しいと思ってしまった、このダブルスタンダード。
人の痛みを物語として「消費」することへの嫌悪感の正体はなんだろう。
「マンガ」であればいいのか・・・。
そこにある境界って一体なんなのか。
追記: その境界線は…
「作品」としての昇華というのは、
みんなが消化できなかったやり場のない思いにひとつの救いの提案である、ということなのかもしれないな。